人魚をめぐって

 今、筆者は羽鳥書店刊行の『イメージの自然史 天使から貝殻まで』という論考集(ないしエッセイ集)を読んでいる。著者は、田中純教授。仙台市に生まれ、東京大学の大学院を出た後、同大学院で教授の職に就いているという。

 筆者は先にエッセイ集という言葉を使ったが、それというのも、あとがきにおいて「デッサンを描きスナップ写真を撮るような身軽さで短い文章を綴ってきた」と明言しているからである。ゆえに、ところどころ疑問に思うような論理もある。が、全体としては、タイトル通り「イメージ」を巡った魅力的な文となっている――と思う。

 さて、筆者はまだ通読をしていないが、本書に収録されている「『リヴァイアサン』から『崖の上のポニョ』まで――ある象徴の系譜」という文章で展開された理論――あるいは宗教――が、新奇なものと感じられた。そこで、本論をざっと俯瞰して、説得的か否かなどという問題は抜きにして、果たして真実かどうか、という問いを投げかけてみたい。

 

リヴァイアサン』の扉絵

 

 名高いホッブズ著『リヴァイアサン』の扉絵には、数多の人間が集合した巨大な人間が、右手に剣、左手に杖を持った姿で描かれている。これは王権の比喩には違いないだろうが、問題は、リヴァイアサンという名前である。

 リヴァイアサンとは旧約聖書に現れる海の怪物である。海の怪物……にもかかわらず、この巨人には海獣らしさがない。

 著者はここで、カール・シュミットの議論を参考に、この巨人の下半身が描かれていないことに注目し、下半身が魚ではないかという。つまり、この巨人は人魚ではないか、というのである。

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生と死のイメージ

 

 ところで、なぜ我々は人魚というと、上半身が人間で下半身が魚、それもとりわけ女性のイメージを想起するのだろうか。上半身が魚で下半身が人間、あるいは男性の人魚も歴史上イメージはされていた。

 田辺悟は人魚を彼岸と此岸の象徴である、という。氏によれば、古代世界では、その空中と海中を自由に往還する様から、イルカがこの世とあの世とを往復できる生物と見立てられたらしい。つまり、海中は彼岸、大気は此岸というわけだ。

 人魚もこのイメージをもとに造形された。上半身の人間は此岸、下半身の魚体は彼岸を象徴する。そして、下半身の魚体が死を象徴するがゆえに、我々には魅力的に映る、というのである。著者は直接言及していないが、同時にそれは、人のタナトスをも惹起することになるだろうか。

 

人魚のイメージは母体回帰願望である

 

 ここで著者は、精神分析医シャーンドル・フェレンツィの『性器論の試み』を引用する。彼によれば、男性器は魚であり、子宮は海である、つまり性交により、「海」への回帰願望が達成される。……一般常識からすれば突拍子もないように聞こえるが、大真面目に力説しているのだ。ちなみに、これを「タラッサ的退行」と呼ぶ。

 では、なぜそのような「降海の見果てぬ夢」が芽生えるのだろうか。

 フェレンツィは、生命の海から陸への進化は、環境の急変によるやむを得ないものであったと考える。ゆえに、強制された進化であったればこそ、我々には海へ還りたいという願望が生まれるのである。ゆえに、性交によって男性は子宮という海への回帰願望を叶えるのである。

 そのような無意識の願望が表層に現れるにつれ変形し、めぐりめぐって下半身が魚、上半身が女体の人魚というイメージに収束した、と著者は言う。つまり、人魚のイメージは基本的に男性によって形成された、というわけだ。

 

崖の上のポニョ』は「生命史」と「降海の見果てぬ夢」の同時上演である

 

 筆者は『崖の上のポニョ』を一回しか観たことがなく、記憶も朧気であるが、著者によればそれは、以上に述べた人魚のイメージに秘められたものの、表徴であるらしい。

ポニョは人間の宗介に好意を持ち、人間になりたいと願う。それは生命の進化の再上演ある。また、彼女の父は、人間から海の住人になったという――つまり、「降海の見果てぬ夢」の達成である。また、作中では大洪水が起こる。これも、「タラッサ的退行」の究極的表現ではなかろうか、と著者は言う。

 

ついでに……『瀬戸の花嫁』への適用

 

 筆者は『瀬戸の花嫁』が結構好きで、アニメも何度か観た(漫画は読んでいない。あの手のシリアスが好きではない)。本作も、ヒロインの瀬戸燦ちゃんは人魚で、また人魚の登場人物も複数いる。あえて言えば、男性の人魚を堂々と描いたところが、評価のポイントだろうか。

 主人公の満潮永澄くんは、海でおぼれてあやうく死にかけるところを、人魚のフォルムの燦ちゃんに助けられる。これはあたかもアンデルセンの『人魚姫』を想起させるが、本作ではあのような悲劇的なクライマックスにはならず、燦ちゃんが永澄くんの許嫁になってしまう。ここに、江戸前瑠奈ちゃんや銭形巡などが絡んで痛快コメディの様相を呈してゆく。

 さて、前述の通り人魚のイメージが死の象徴だとすれば、燦ちゃんを求める永澄くんは、無意識のうちに死を求めている、ということになる。ただ、彼は他ならぬ死の象徴により、命を助けられているのだ。これは、単純に考えれば古代以来のイメージのメタモルフォーゼか、それともそもそもの理論が間違えているのか。筆者には断言できない。しかし、人魚が「降海の見果てぬ夢」だとすれば、永澄くんは燦ちゃんに海を見、「タラッサ的退行」を願っているのかもしれない。そうして彼らが結ばれれば、それはノアの大洪水さながら、彼の一切を洗い流すのかもしれぬ。

美を生み出す場としての身体

さる日に買った「エステティーク」という雑誌に、最上和子さんという方が「人間の身体は美しい」というエッセイを寄稿していた。

 

最上和子さんは舞踏家で、あの押井守監督のお姉さんらしい。「場としての身体」をモットーに、日々身体美の可能性を探っているということである。

 

「人間の身体は美しい」は、最初に人間の身体が筆者にとって如何に醜く見えるかを述べる。タイトルとは正反対の冒頭であるから、ここらどのようにして「人間の身体は美しい」という発見に至るのか。

筆者は動物を引き合いに出す。動物は美しい。なぜなら彼らには自我がないからである。自我がないといことは即ち、美=生の直接性・全体性=自然を持っているということである。人間には自我があるので、自然を自我という媒介を通して認識せざるを得ず、従って美からは遠ざかってしまっている。ゆえに、人間の身体は醜い。

とすれば人間はいかにして美を獲得するか。舞踏家としての筆者によれば、それは身体の輪郭を溶かすことにある。そうすると自我も薄れ、自分が自然と直接つながるようになるらしい。

そしてその、輪郭が溶け自我が薄れた身体は、「美」と「永遠」のための場となる。

「美」や「永遠」は一瞬そこを横切るだけだが、我々はそれを捉えねばならない。

 

特に感想などはないが、もう少し明晰な言葉遣いをしてほしかった。例えば美=全体性などと言っていたが、それを自然とほぼ同義に使っている箇所も散見された。

Ergo proxy

 久々に見たアニメだった。SFだが面白かった。

 本作のテーマは察するに、自由意志の所在についてである。自由意志、といえば堅苦しいが、要するに、人は自分で考えることができるだろうか、加えて自己とは何か、という問いである。考古学的に起源を問えば果てしなかろうが、筆者の知っている限り、ルターとエラスムスの論争が記憶に新しい。無論、自由意志の存否について、である。前者は、人は結局神に行動を予定されている、として、後者は、神による人間の決定を否定する。その背景にはルネサンスーー歴史的にフマニタス研究と呼ばれる運動があることを、我々は見る。ムッサートを鼻祖とする人文主義は、今までのキリスト教スコラ哲学を批判し、人間の価値を称揚する。ペトラルカは太陽だ。詩人によれば、詩の女神ムーサが力を与えるという。あのダンテ・アリギエーリ――キリストを信じ続け、堕落した神の花嫁たちを批判し、放浪に命尽きた詩人さえも、畢生の大作『神曲』の最初に、詩の女神に祈りを捧げている……天高く歌えるように、神の奇跡を詩行に示すことができるように。つまり、異教の神々の復活である。ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラは、人間の尊厳を爽やかに語った。かくしてルネサンスは産声を上げる。産婆は詩人であった。中世抑圧されてきた詩は、墓場から蘇った。永遠の肉体を得た詩は、フィチーノなどによって市民権を得る。それがルネサンスである。興味のある方は、伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』をご一読いただきたい。人間の自由について、深く考える契機になろう。

 

 本作で自由意志が強調されるのは、オートレイヴ(自動機械のようなもの)、人間もどき、そしてproxyの性質による。いずれも己より高次の存在を知っている。悲惨なのは、自分より高い存在が、全能ではないということであった。我々の世界では、キリスト教の神も、イスラム教の神も、ユダヤ教の神も全能である。即ち、レゾンデートルを容易に求められない。リルは常に懐疑的だ。デダルスはもっと簡単に、リルを己のレゾンデートルだとした。ヴィンセントは、更に険しい峰を登る必要があった。ピノは感情を大切に抱きしめた。

 更に、コギトウイルスも疑問を投げかける。それに感染したオートレイヴは、自我を持つという。コギトとは、ラテン語の cogito である。デカルトの Cogito ergo sum がなじみ深い。それには自己意識という訳語が当てられるらしい。が、エティモロジーに泥むのはやめよう。我々は、先へ歩かねばならない。

 ergoは、「それゆえ」などと訳されるらしい。そうして sum は、「ある・いる」を意味するという。つまり、自分の存在が確証される、というわけだ。そこで、 cogito が問題となる、というわけで、テーマもそうなる。また、 proxy も意味ありげにこちらを見ている。代理、である。つまり誰かの代わり。自己の確証が困難な立場に立たされている。

 

 最終的に、リルやヴィンセントの生きる世界は崩壊する。そして、彼らの創造者――本物の人間が到来する。だが彼らは諦めない。それぞれが自我を確証し、自分たちの旗を立てるため旅立つ。未来は光か、闇か?……アニメはここで終わる。多分に示唆的である。彼らの物語に思いを馳せよう。彼らは筆者に翼を与えた。それを懸命に羽ばたかせ、飛ぶ時が来た。空は青い。太陽は超然と微笑んでいる。Ergo proxy のテーマを、今度は自分が追体験する。それは視聴者の至福の時であり、特権である。

 優れたアニメだった。

小栗虫太郎『魔童子』紹介

魔童子 第一篇 暗流を辿って

一、伽羅仙童子の唇

 

と、なんとも摩訶不思議な題名と副題で始まる。この短編小説は、桃源社刊行『小栗虫太郎全作品2 完全犯罪』に収められた、六篇の「新伝奇小説」の一つ。インターネットで検索すると、『完全犯罪』や『白蟻』、『青い鷺』などは時折ブロガーにフィーチャーされているが、この『魔童子』は、どうにもレビューの剔抉に苦心する。

と、いうことで、この一品に興味を覚えたが、どんな内容なのかを知りたい人に僅かでも資するため、筆者は記事を書く。

 

舞台は上野博物館に始まる。「私」と副院長伊能博士が、仏画を鑑賞しているところ、話題は八戸浄海という破戒僧の患者になる。

彼は、不可解な仏の木像を病室に常に安置しており、時折、愛撫すらする。

そうして、その因縁を語りだすと、柯爛上人の描いた奇怪な仏画まで遡った。

「侍童子摩優夷、悉達多に発情を強いるの図」。

仏と発情、なんとも陰惨な組み合わせだ。が、それだけには留まらない。

 

「その一つは、絵を透かしてみると、悉達多の右足に、拇指が一本余計に描かれてあって、即ち第六指が、画面では一枚のトラムプ札で塗りつぶされている。……それから第二のは、摩優夷の右眼に瞳がなく、……筒抜けの孔になっていて、……悉達多の臍がそこから覗いているのだ。そして、最後の三番目が……一枚の布片があって、それには、二行の漢文が認められていた。……○○現○○底 ○○○有○中」

 

以上、三つの謎が仕掛けられているのである。

そうして、作品に出る謎が謎を呼び、殺人、潜入、窃盗の風が吹き荒び、物語は、意外な結末を迎える……。

 

と、こういった筋書き。そうして、伽羅仙童子、浄紫石などの奇想は、いかにも小栗虫太郎らしいところだ。

これは、探偵小説ではあるが、冒険小説的であり、怪奇小説的でもある。後に作者は、人外魔境シリーズを金字塔とする冒険小説へ、その活躍の舞台を移すが、その萌芽が早くも感じられる。

以上、極めて簡略に筋を追った。興味を覚えた方は、是非古本でも求めて、存分に楽しんで頂きたい。

輪るピングドラム

夕方の頃合からこのアニメを観始めた。最初は1クールのみと決めかかっていたが、ストーリーの展開がなかなか遅い。おかしいと思っていたら2クールあるらしく、驚いた。それでも最後までぶっ通しで観た。正直深夜に大詰めのシーンを観たせいか、漠とした感想しか抱いていない。

以下、それぞれ話題を分けて叙述する。

 

本作品のあらすじ

本作品は非常にゴチャゴチャした印象を抱かせるであろうが、ストーリーの大筋は極めて簡単である。

即ち、妹を救いたい兄弟が、そのために未知の存在の促すままにピングドラム奔走する。途中、様々な障害(家族の起こした事件のしがらみ等)があるも、それらを運と家族の絆で乗り越え、最終的に妹のために、2人の兄弟は自ら全てを背負い消滅。結果、運命は変更され、妹は健康、他の人物もピングドラムの因果を逃れ、平穏な暮らしに入る。

一見王道展開のようである。それでなお雑然とした感を抱かせるのは、本作の大筋に、様々な肉付けが施されているからである。以下、それについて述べる。

 

子供ブロイラーについて

 子供ブロイラーは作中の設定によると、何者にもなれなかった子供たちが収容され、最終的に透明になる(≒死?)場所である。透明になるとは、描写を見ると、ローラーに轢かれて粉々になることらしい。本作の重要人物の中にも、ここに送られ、或いはここで運命の出会いを果たした者も多い。

さて、このアニメを観ると分かるが、子供ブロイラーとは何なのかという疑問がわく。作中ではさも当然であるかのように存在しているが、無論我々の住む現実世界ではそんなものとは縁が無い。とすると、何かのメタファーと捉えるしかないように思われる。何のメタファーか。

これは踏み入ってみると、監督の内部心理を反映したものと解釈できなくもないように感じる。彼は母子家庭で育った。つまり血縁の父が欠けた状態である。片親になると、自然その親に対する意識が、両親を持つ子とは異なって強くなるように思う。同時にまた、捨てられるということに対する恐怖心も芽生えるのではないかと推察される。非力な子供は、庇護者を失うと社会に見放されたも同然のように感じ、どうしようもない孤独感に襲われるからである。以上のような監督自身のネガティブな心理が、子供ブロイラーという断頭台を、創り出したように考えられるのである。

 

作中に出される例えについて

このアニメでは例えが多分に使われている。その顕著な例として、12話くらいに語られた「メリーさんと3匹の子羊」を挙げる。詳細はあまり覚えていないので各自視聴されることを望む。

この中で、メリーさんは灰(火)を、りんごの木復活のために盗んでくる。その結果、りんごの木はみるみる生命を滾らせ、再びその赤い実を結ぶようになるが、代償として子羊のうち最も小さくか弱い者の命が、女神によって奪われる。

火を盗むといえば、プロメテウスの神話が想起される。かの神は、オリュンポスの神々のもとから火を奪い、下界に住む人間に与え、やがてそれが知恵の発生の原因となった。後に神々の怒りを買ったプロメテウスは、とある山に縛られることとなる。ここらの詳細が知りたいならば、アイスキュロス『縛られたプロメテウス』やシェリー『鎖を解かれたプロメテウス』などを読むことを勧める。

他にも作中には比喩が多く使われるが、あまりにもそれが膨大な数にのぼるため、ここに詳述するのは控える。ただ、禁断の果実やボルヘス『バベルの図書館』を思い出させるようなメタファーも数多く用いられていることは、ここに断っておく。

 

世界の構造について

本作の世界観としては、初見では運命愛の態度が登場人物に見られる。

またこの世界では幽冥の区別が曖昧らしく、異世界や幻視、呪いなどといった非科学的な事柄が実際に起こりうることとして認容されているようである。

さらに根本的なものとしては、ストーリー全体が、眞悧と桃華の2人の相対する超自然的存在によるゲームとして進められていることが挙げられる。眞悧は世界の改変、桃華は世界の守護者として、お互いに相手の前に立ちはだかる。彼らの用意した運命の下に、登場人物たちは翻弄されていくことになる。

 

何故このような作品構造になったか

何故本作品は、あらすじに様々な肉付けがなされるという、少し奇妙な構造をとるに至ったか。

根拠はないが、ドグラ・マグラの影響の可能性を指摘したい。

前述したように、監督は母子家庭ということである。ドグラ・マグラの主人公とも言うべき呉一郎もまた、母が自らの幼い時に離婚し、各地を転々としながら育てられてきた。この悲劇的人物に自らの境遇を見出し、彼に自分の影を重ね合わせるのも無理からぬことと想像できる。ドグラ・マグラの最大の特徴として、脳髄論や胎児の夢、キチガイ地獄外道祭文に代表されるような、本筋から一見すると明らかに逸脱しているように見える(実際は重要な推理の証拠となる)事柄により作品の骨に肉付けがなされていることがある。本作が様々に枝分かれしているのも、この特徴を真似て作られたからと考えても無理はないように思う。

呉一郎は母親を手にかけてしまうが、作中の高倉晶馬もまた両親を見限ろうとしている辺り、決して無茶な推論とは考えがたいように思う。

 

製作側の伝えたかったことは何か

 

アニメに限らずあらゆる創作に付きまとう問題である。この作品の主題は何なのか。

私が思うに、家族の在り方というものが、主題に当たるのではないか。

本作の中心人物と言うべき高倉三兄弟は、お互いに血が繋がっていない義理の兄弟関係にある。作中の言葉を借りれば、それは「家族ごっこ」である。晶馬は冠葉と決別した際、家族ごっこは嫌だと言い、陽毬にまで家を出ていくことを諭す。常識的に考えて異常である。しかし高校生であることを鑑みるに、多感な時期において、信頼していた兄の手が汚れていたこと、その兄が妹を助けるためだけに全てを投げ打っていること等が立て続けに分かった状態では、精神状態も自ずと不安定になるかと思う。

また多蕗桂樹と時籠ゆりは、桃華という共通の恋慕する対象のもとに、初めは見かけだけの家族としての生活をスタートした。これもいわば「家族ごっこ」であろう。

対比させられる側として、血縁家族を持つ登場人物が出てくる。荻野目苹果は実姉である桃華を生まれてすぐ亡くし、以来自分が桃華になることを望むようになる。彼女自身それを両親も望んでいるように思い込んでいる。しかし彼女に訪れたのは家族関係の破綻であった。彼女は自分が両親の期待(=自分が桃華になること)に応えられていないせいだと思い込み、ますます奇行を繁くするようになる。これは血縁家族間の問題である。また夏芽真砂子は、実兄である冠葉の愛を求めて全てを擲つ。加えて、祖父の死亡により父の帰還が実現されることも切望するようになる。彼女の身近に感じられる肉親はマリオただ1人である。彼女は離れ離れの、血の繋がった家族を求めた。同時に、弟の延命も求め、生存戦略に身を投じる。なんとも涙ぐましい、これもまた血縁家族間の問題である。

以上のように、登場人物には執拗に家族の問題を背負わせているように考えられる。他にも多蕗桂樹や時籠ゆりの親は毒親として描写されている。

監督は様々に困難を抱えた家族を登場させ、それの救済を描くことに執念した。それは彼の出で立ちから来るものであるかもしれない。とにかく彼は家族問題に固執した。それは現代の家族の在り方に訴えを投げかけているようにも見える。最終的に、登場人物の家族問題は解決を見るものも見ないものもあった。監督の一種のリアリズムの現れともとれる。または彼のレジグナチオンとも読み取ることが出来る。

 

タイトルの意味

輪るピングドラム。一見して奇妙なタイトルである。輪るとは何か。ピングドラムとは何か。

ピングドラムについては作中で語られる。それは、10年前に高倉兄弟が共に分けて食したりんごのことらしい。最終話では、それを冠葉に返還する晶馬が見られる。

では輪るとは何か?

結論を最初に言うと、輪廻転生、あるいは円環のことを指すと考えられる。最終話で高倉兄弟は揃って消滅した。が、運命の乗り換えられた世界で、 本当の血を分けた兄弟として生まれ変わりを遂げたことを示唆する描写がなされている。また、眞悧の呪いは父母から彼らに受け継がれた。それは彼らの子孫にまで至るかもしれない。その意味で円環の構造を取っていると言える。

輪廻転生の中で、子孫に受け継がれる円環の中で、ピングドラムは継承され続ける。本タイトルは、そのことを暗に示していると読み取られても良いかと思われる。

申し訳程度の総括

私の曰く、このアニメは家族をテーマにした物語である。それが監督自身の環境から来るものである可能性は一応指摘しておいた。しかし、もともと「よく分からない」と言われることの多いアニメである。この記事では取り上げなかったが、まだまだ様々な謎が残されている。しかしいちいちそれらに言及する余裕は私には無い。あとは数寄者に任せようと思う。

個人的文章の楽しみ方

高校時代、友人に好きな小説をおすすめすると、読書家の人間は受け取ってくれるのだが、そうでない者は、

 

「いや、なんか文字ばっかりだし……」

 

と言って突き返してくることがよくあった。

文字ばっかりだから嫌だ?

確かに、そう言う友達は大抵漫画か或いはライトノベルまでしか手を出していなかった。かたやイラストが主役、かたやキャラクターを愛でることが主要なメディアである。そういうジャンルを嗜好する人にとって、文字は装飾に過ぎないのかもしれない。

 

とすると、文学作品を読む人は、何を求めているのか、という疑問が湧いてくる。文学はキャラクターに主眼を置く訳では無い(もちろんそれは大体の話であって、『カラマーゾフの兄弟』には多分に魅力的な人物が大勢出てくるなど、例外もある)。かの有名な夏目漱石は、文学に「フィロソフィー」を求めていたし、政治思想を表現するために文芸が選ばれたことも少なくない(ドストエフスキーゲーテなど)。

思うに、小説には

 

・作者の人生観(漱石、鴎外、ホフマン)

・作者の政治・社会思想(ドストエフスキー、ダンテ)

・作者の美学(泉鏡花川端康成、ポー)

 

の三つの主要な要素がそれぞれの作品に一つ乃至複数あると考えられる。 つまり文学を読むとは、時を超えて作者と対話をすることなのである。(以上挙げた要素以外にも、社会風刺のようなジャンルもあることは一応述べておく)

 

こう見ると、文学作品には多様な側面があって、最初から足場を据えて一定の視点から味わうことは、少し難しいように思えるかもしれない(実際難しい)。しかし、文学作品には共通して読者が興味を持つべき要素がある。それは文体である。

同じ平仮名、片仮名、漢字を使っていても、使い手によってもちろんそれらの組み合わせは何通りにもなる。小栗虫太郎のように、漢字にこれでもかと言うくらいルビを振る作家もいる。それも個性である。文章は作者の個性の発露である。

ゆえに、文体は作者の自己表現なのである。

そう考えると、まず同じような文章の作品は存在しない。自己表現は唯一である。すると様々な作家の作品に当たる度に読者は新しい経験を得られるということになる。

こうして読書は続けられていく。

 

文芸を読む際には、まず文体を楽しむことから始め、次に中身を吟味するというように、外から中への動きがあると、より一層充実した読書ができるんじゃないかなと思っている。

森鴎外『山椒太夫』諸考

ある日、三島由紀夫の『文章読本』を読んでいると、こんな文章に会った。

「この文章(鴎外の文章)はまったく漢文的教養の上に成り立った、簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。……文学的素人には、こういう文章は決して書けない。このような現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものを全部剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出すという文章は、鴎外独特のものであります。」

 

漢文的教養を下敷きにした作家といえば、真っ先に中島敦が思い浮かぶ。あの、『山月記』を作者でもある文豪だ。中島敦の文章を読めば、誰でも、彼が漢文を模範とした文章を書いていることに気がつく。

しかし、鴎外とは?

中学の時、国語の時間に『高瀬舟』を読んで、感銘を受けたことを覚えている。でも、果たして漢文的に書かれているかは当時は勿論分からなかった。そうして月日が流れた今でも、森鴎外という作家の作品に触れることは終になかった。

というわけで、私は『山椒太夫』を読むことにした。

 

読了した時、涙が止まらなかった。それは読んだことのある、或いは物語を知っている人ならば共感してくれるだろうが、とにかく姉の健気さ、強さが心に響いて止まない。彼女(安寿)が都へ向かって往く厨子王を坂の上から見つめていた時の心持ちは如何なるものだったか。最早それは、似たような経験をしたことのある人間にしか分からないかもしれない。

言いたいことはたくさんあるが、文章について一つ。非常に簡潔で明快、それでいて軽薄でなく重みがあり、読む者を圧倒する重厚さが感じられる。動くこと山の如し、とでも形容したくなる。ウンザリする余計な修飾は一切ない。また、現代小説にありがちな、「作者による登場人物の心理の推察」が無い。私はこれが嫌いだ。だから川端康成も、美しい文章を書きはするが、好んでいない(エンタメ小説にあるような踏み込みすぎた心理推理はないものの、それでも光景の描写からサラッとそこに落ち込むことがある)。だから、鴎外の文章は実によく出来ているなあと思った。こんなことを言うと、『源氏物語』だとか西鶴の諸作品を否定しているように聞こえるかもしれないが、あくまでも個人の好みの問題であるから、そのような意図はない。

全く、「一に明晰、二に明晰、三に明晰」の通りだなあ、と思う。

 

そして内容について。これは説話に基づいているらしい。詳しくは分からないので、各人調べられたい。

母と安寿と厨子王、そして姥竹の4人が筑紫に向かう途中、人攫いに攫われ、姥竹は自決、母は佐渡に売られ、安寿と厨子王の姉弟は山椒太夫の下に売られた。姉弟は奴婢の仕事をこなしながら、いつか大きくなった時、両親と再会する日を思って苦難を忍ぶ。ある日、2人は同じ夢を見る。それは守本尊が見せた象徴の夢だった。その日を境に姉は弟を逃がすことを考え、ついに実行に移す。弟は無事逃げたが、自分は所詮助からないものと思ったのか入水。その後厨子王は藤原師実の知遇を得、ついに母と再会する――。

 

一見すると仏教説話のような構成にも見える。が、やはり文学にはメッセージがつきものだから、それを探し出したい。私が読んだ新潮文庫版の裏には、

 

「犠牲の意味を問う」

 

という文句がある。

犠牲とは言うまでもなく安寿のことだろう。彼女の死は一体何だったのか。厨子王が逃れるためだけのものだったのか。

解説を読むと、

 

「自己没却、自己否定、秩序への完全な服従、権威に対する全幅の肯定、ある意味での運命への愛」

 

がテーマだとされる。なるほど、そうかもしれない。「もうこうした身の上になっては、運命の下に項を屈めるより外はない」と観念した姉弟の態度も描写されている。正直、この文言を見た時には膝を打った。が、折角だから、もう少し他の視点が欲しい(勿論これも否定ではなく、本作品の多面的な形態の確認のためである)。そうなると、もう「母性崇拝」的なものしか思い浮かばない。しかしこれも違う。そもそも母親はすぐに舞台から降板するし、母性に関する描写も特にはなされていない。

果たして本当に「運命愛」だけが本作品のテーマなのか?

森鴎外の以降の文学的態度を見ればそうかもしれない(「かのように」、レジグナシオンなどの様な)。が、文学が人間の手から生み出されるものである以上、そこには人間的な複雑さ、理屈では片付けられない錯綜、様々な価値の衝突と結果の宙吊り、などがあっても良いのではないかとも思う。

 

これを機に、森鴎外の作品を一度全て読み通したい。加えて、皆が本作品を読んで、様々な意見を持たれることを期待したい。