森鴎外『山椒太夫』諸考

ある日、三島由紀夫の『文章読本』を読んでいると、こんな文章に会った。

「この文章(鴎外の文章)はまったく漢文的教養の上に成り立った、簡潔で清浄な文章でなんの修飾もありません。……文学的素人には、こういう文章は決して書けない。このような現実を残酷なほど冷静に裁断して、よけいなものを全部剥ぎ取り、しかもいかにも効果的に見せないで、効果を強く出すという文章は、鴎外独特のものであります。」

 

漢文的教養を下敷きにした作家といえば、真っ先に中島敦が思い浮かぶ。あの、『山月記』を作者でもある文豪だ。中島敦の文章を読めば、誰でも、彼が漢文を模範とした文章を書いていることに気がつく。

しかし、鴎外とは?

中学の時、国語の時間に『高瀬舟』を読んで、感銘を受けたことを覚えている。でも、果たして漢文的に書かれているかは当時は勿論分からなかった。そうして月日が流れた今でも、森鴎外という作家の作品に触れることは終になかった。

というわけで、私は『山椒太夫』を読むことにした。

 

読了した時、涙が止まらなかった。それは読んだことのある、或いは物語を知っている人ならば共感してくれるだろうが、とにかく姉の健気さ、強さが心に響いて止まない。彼女(安寿)が都へ向かって往く厨子王を坂の上から見つめていた時の心持ちは如何なるものだったか。最早それは、似たような経験をしたことのある人間にしか分からないかもしれない。

言いたいことはたくさんあるが、文章について一つ。非常に簡潔で明快、それでいて軽薄でなく重みがあり、読む者を圧倒する重厚さが感じられる。動くこと山の如し、とでも形容したくなる。ウンザリする余計な修飾は一切ない。また、現代小説にありがちな、「作者による登場人物の心理の推察」が無い。私はこれが嫌いだ。だから川端康成も、美しい文章を書きはするが、好んでいない(エンタメ小説にあるような踏み込みすぎた心理推理はないものの、それでも光景の描写からサラッとそこに落ち込むことがある)。だから、鴎外の文章は実によく出来ているなあと思った。こんなことを言うと、『源氏物語』だとか西鶴の諸作品を否定しているように聞こえるかもしれないが、あくまでも個人の好みの問題であるから、そのような意図はない。

全く、「一に明晰、二に明晰、三に明晰」の通りだなあ、と思う。

 

そして内容について。これは説話に基づいているらしい。詳しくは分からないので、各人調べられたい。

母と安寿と厨子王、そして姥竹の4人が筑紫に向かう途中、人攫いに攫われ、姥竹は自決、母は佐渡に売られ、安寿と厨子王の姉弟は山椒太夫の下に売られた。姉弟は奴婢の仕事をこなしながら、いつか大きくなった時、両親と再会する日を思って苦難を忍ぶ。ある日、2人は同じ夢を見る。それは守本尊が見せた象徴の夢だった。その日を境に姉は弟を逃がすことを考え、ついに実行に移す。弟は無事逃げたが、自分は所詮助からないものと思ったのか入水。その後厨子王は藤原師実の知遇を得、ついに母と再会する――。

 

一見すると仏教説話のような構成にも見える。が、やはり文学にはメッセージがつきものだから、それを探し出したい。私が読んだ新潮文庫版の裏には、

 

「犠牲の意味を問う」

 

という文句がある。

犠牲とは言うまでもなく安寿のことだろう。彼女の死は一体何だったのか。厨子王が逃れるためだけのものだったのか。

解説を読むと、

 

「自己没却、自己否定、秩序への完全な服従、権威に対する全幅の肯定、ある意味での運命への愛」

 

がテーマだとされる。なるほど、そうかもしれない。「もうこうした身の上になっては、運命の下に項を屈めるより外はない」と観念した姉弟の態度も描写されている。正直、この文言を見た時には膝を打った。が、折角だから、もう少し他の視点が欲しい(勿論これも否定ではなく、本作品の多面的な形態の確認のためである)。そうなると、もう「母性崇拝」的なものしか思い浮かばない。しかしこれも違う。そもそも母親はすぐに舞台から降板するし、母性に関する描写も特にはなされていない。

果たして本当に「運命愛」だけが本作品のテーマなのか?

森鴎外の以降の文学的態度を見ればそうかもしれない(「かのように」、レジグナシオンなどの様な)。が、文学が人間の手から生み出されるものである以上、そこには人間的な複雑さ、理屈では片付けられない錯綜、様々な価値の衝突と結果の宙吊り、などがあっても良いのではないかとも思う。

 

これを機に、森鴎外の作品を一度全て読み通したい。加えて、皆が本作品を読んで、様々な意見を持たれることを期待したい。