個人的文章の楽しみ方

高校時代、友人に好きな小説をおすすめすると、読書家の人間は受け取ってくれるのだが、そうでない者は、

 

「いや、なんか文字ばっかりだし……」

 

と言って突き返してくることがよくあった。

文字ばっかりだから嫌だ?

確かに、そう言う友達は大抵漫画か或いはライトノベルまでしか手を出していなかった。かたやイラストが主役、かたやキャラクターを愛でることが主要なメディアである。そういうジャンルを嗜好する人にとって、文字は装飾に過ぎないのかもしれない。

 

とすると、文学作品を読む人は、何を求めているのか、という疑問が湧いてくる。文学はキャラクターに主眼を置く訳では無い(もちろんそれは大体の話であって、『カラマーゾフの兄弟』には多分に魅力的な人物が大勢出てくるなど、例外もある)。かの有名な夏目漱石は、文学に「フィロソフィー」を求めていたし、政治思想を表現するために文芸が選ばれたことも少なくない(ドストエフスキーゲーテなど)。

思うに、小説には

 

・作者の人生観(漱石、鴎外、ホフマン)

・作者の政治・社会思想(ドストエフスキー、ダンテ)

・作者の美学(泉鏡花川端康成、ポー)

 

の三つの主要な要素がそれぞれの作品に一つ乃至複数あると考えられる。 つまり文学を読むとは、時を超えて作者と対話をすることなのである。(以上挙げた要素以外にも、社会風刺のようなジャンルもあることは一応述べておく)

 

こう見ると、文学作品には多様な側面があって、最初から足場を据えて一定の視点から味わうことは、少し難しいように思えるかもしれない(実際難しい)。しかし、文学作品には共通して読者が興味を持つべき要素がある。それは文体である。

同じ平仮名、片仮名、漢字を使っていても、使い手によってもちろんそれらの組み合わせは何通りにもなる。小栗虫太郎のように、漢字にこれでもかと言うくらいルビを振る作家もいる。それも個性である。文章は作者の個性の発露である。

ゆえに、文体は作者の自己表現なのである。

そう考えると、まず同じような文章の作品は存在しない。自己表現は唯一である。すると様々な作家の作品に当たる度に読者は新しい経験を得られるということになる。

こうして読書は続けられていく。

 

文芸を読む際には、まず文体を楽しむことから始め、次に中身を吟味するというように、外から中への動きがあると、より一層充実した読書ができるんじゃないかなと思っている。