輪るピングドラム

夕方の頃合からこのアニメを観始めた。最初は1クールのみと決めかかっていたが、ストーリーの展開がなかなか遅い。おかしいと思っていたら2クールあるらしく、驚いた。それでも最後までぶっ通しで観た。正直深夜に大詰めのシーンを観たせいか、漠とした感想しか抱いていない。

以下、それぞれ話題を分けて叙述する。

 

本作品のあらすじ

本作品は非常にゴチャゴチャした印象を抱かせるであろうが、ストーリーの大筋は極めて簡単である。

即ち、妹を救いたい兄弟が、そのために未知の存在の促すままにピングドラム奔走する。途中、様々な障害(家族の起こした事件のしがらみ等)があるも、それらを運と家族の絆で乗り越え、最終的に妹のために、2人の兄弟は自ら全てを背負い消滅。結果、運命は変更され、妹は健康、他の人物もピングドラムの因果を逃れ、平穏な暮らしに入る。

一見王道展開のようである。それでなお雑然とした感を抱かせるのは、本作の大筋に、様々な肉付けが施されているからである。以下、それについて述べる。

 

子供ブロイラーについて

 子供ブロイラーは作中の設定によると、何者にもなれなかった子供たちが収容され、最終的に透明になる(≒死?)場所である。透明になるとは、描写を見ると、ローラーに轢かれて粉々になることらしい。本作の重要人物の中にも、ここに送られ、或いはここで運命の出会いを果たした者も多い。

さて、このアニメを観ると分かるが、子供ブロイラーとは何なのかという疑問がわく。作中ではさも当然であるかのように存在しているが、無論我々の住む現実世界ではそんなものとは縁が無い。とすると、何かのメタファーと捉えるしかないように思われる。何のメタファーか。

これは踏み入ってみると、監督の内部心理を反映したものと解釈できなくもないように感じる。彼は母子家庭で育った。つまり血縁の父が欠けた状態である。片親になると、自然その親に対する意識が、両親を持つ子とは異なって強くなるように思う。同時にまた、捨てられるということに対する恐怖心も芽生えるのではないかと推察される。非力な子供は、庇護者を失うと社会に見放されたも同然のように感じ、どうしようもない孤独感に襲われるからである。以上のような監督自身のネガティブな心理が、子供ブロイラーという断頭台を、創り出したように考えられるのである。

 

作中に出される例えについて

このアニメでは例えが多分に使われている。その顕著な例として、12話くらいに語られた「メリーさんと3匹の子羊」を挙げる。詳細はあまり覚えていないので各自視聴されることを望む。

この中で、メリーさんは灰(火)を、りんごの木復活のために盗んでくる。その結果、りんごの木はみるみる生命を滾らせ、再びその赤い実を結ぶようになるが、代償として子羊のうち最も小さくか弱い者の命が、女神によって奪われる。

火を盗むといえば、プロメテウスの神話が想起される。かの神は、オリュンポスの神々のもとから火を奪い、下界に住む人間に与え、やがてそれが知恵の発生の原因となった。後に神々の怒りを買ったプロメテウスは、とある山に縛られることとなる。ここらの詳細が知りたいならば、アイスキュロス『縛られたプロメテウス』やシェリー『鎖を解かれたプロメテウス』などを読むことを勧める。

他にも作中には比喩が多く使われるが、あまりにもそれが膨大な数にのぼるため、ここに詳述するのは控える。ただ、禁断の果実やボルヘス『バベルの図書館』を思い出させるようなメタファーも数多く用いられていることは、ここに断っておく。

 

世界の構造について

本作の世界観としては、初見では運命愛の態度が登場人物に見られる。

またこの世界では幽冥の区別が曖昧らしく、異世界や幻視、呪いなどといった非科学的な事柄が実際に起こりうることとして認容されているようである。

さらに根本的なものとしては、ストーリー全体が、眞悧と桃華の2人の相対する超自然的存在によるゲームとして進められていることが挙げられる。眞悧は世界の改変、桃華は世界の守護者として、お互いに相手の前に立ちはだかる。彼らの用意した運命の下に、登場人物たちは翻弄されていくことになる。

 

何故このような作品構造になったか

何故本作品は、あらすじに様々な肉付けがなされるという、少し奇妙な構造をとるに至ったか。

根拠はないが、ドグラ・マグラの影響の可能性を指摘したい。

前述したように、監督は母子家庭ということである。ドグラ・マグラの主人公とも言うべき呉一郎もまた、母が自らの幼い時に離婚し、各地を転々としながら育てられてきた。この悲劇的人物に自らの境遇を見出し、彼に自分の影を重ね合わせるのも無理からぬことと想像できる。ドグラ・マグラの最大の特徴として、脳髄論や胎児の夢、キチガイ地獄外道祭文に代表されるような、本筋から一見すると明らかに逸脱しているように見える(実際は重要な推理の証拠となる)事柄により作品の骨に肉付けがなされていることがある。本作が様々に枝分かれしているのも、この特徴を真似て作られたからと考えても無理はないように思う。

呉一郎は母親を手にかけてしまうが、作中の高倉晶馬もまた両親を見限ろうとしている辺り、決して無茶な推論とは考えがたいように思う。

 

製作側の伝えたかったことは何か

 

アニメに限らずあらゆる創作に付きまとう問題である。この作品の主題は何なのか。

私が思うに、家族の在り方というものが、主題に当たるのではないか。

本作の中心人物と言うべき高倉三兄弟は、お互いに血が繋がっていない義理の兄弟関係にある。作中の言葉を借りれば、それは「家族ごっこ」である。晶馬は冠葉と決別した際、家族ごっこは嫌だと言い、陽毬にまで家を出ていくことを諭す。常識的に考えて異常である。しかし高校生であることを鑑みるに、多感な時期において、信頼していた兄の手が汚れていたこと、その兄が妹を助けるためだけに全てを投げ打っていること等が立て続けに分かった状態では、精神状態も自ずと不安定になるかと思う。

また多蕗桂樹と時籠ゆりは、桃華という共通の恋慕する対象のもとに、初めは見かけだけの家族としての生活をスタートした。これもいわば「家族ごっこ」であろう。

対比させられる側として、血縁家族を持つ登場人物が出てくる。荻野目苹果は実姉である桃華を生まれてすぐ亡くし、以来自分が桃華になることを望むようになる。彼女自身それを両親も望んでいるように思い込んでいる。しかし彼女に訪れたのは家族関係の破綻であった。彼女は自分が両親の期待(=自分が桃華になること)に応えられていないせいだと思い込み、ますます奇行を繁くするようになる。これは血縁家族間の問題である。また夏芽真砂子は、実兄である冠葉の愛を求めて全てを擲つ。加えて、祖父の死亡により父の帰還が実現されることも切望するようになる。彼女の身近に感じられる肉親はマリオただ1人である。彼女は離れ離れの、血の繋がった家族を求めた。同時に、弟の延命も求め、生存戦略に身を投じる。なんとも涙ぐましい、これもまた血縁家族間の問題である。

以上のように、登場人物には執拗に家族の問題を背負わせているように考えられる。他にも多蕗桂樹や時籠ゆりの親は毒親として描写されている。

監督は様々に困難を抱えた家族を登場させ、それの救済を描くことに執念した。それは彼の出で立ちから来るものであるかもしれない。とにかく彼は家族問題に固執した。それは現代の家族の在り方に訴えを投げかけているようにも見える。最終的に、登場人物の家族問題は解決を見るものも見ないものもあった。監督の一種のリアリズムの現れともとれる。または彼のレジグナチオンとも読み取ることが出来る。

 

タイトルの意味

輪るピングドラム。一見して奇妙なタイトルである。輪るとは何か。ピングドラムとは何か。

ピングドラムについては作中で語られる。それは、10年前に高倉兄弟が共に分けて食したりんごのことらしい。最終話では、それを冠葉に返還する晶馬が見られる。

では輪るとは何か?

結論を最初に言うと、輪廻転生、あるいは円環のことを指すと考えられる。最終話で高倉兄弟は揃って消滅した。が、運命の乗り換えられた世界で、 本当の血を分けた兄弟として生まれ変わりを遂げたことを示唆する描写がなされている。また、眞悧の呪いは父母から彼らに受け継がれた。それは彼らの子孫にまで至るかもしれない。その意味で円環の構造を取っていると言える。

輪廻転生の中で、子孫に受け継がれる円環の中で、ピングドラムは継承され続ける。本タイトルは、そのことを暗に示していると読み取られても良いかと思われる。

申し訳程度の総括

私の曰く、このアニメは家族をテーマにした物語である。それが監督自身の環境から来るものである可能性は一応指摘しておいた。しかし、もともと「よく分からない」と言われることの多いアニメである。この記事では取り上げなかったが、まだまだ様々な謎が残されている。しかしいちいちそれらに言及する余裕は私には無い。あとは数寄者に任せようと思う。