Ergo proxy

 久々に見たアニメだった。SFだが面白かった。

 本作のテーマは察するに、自由意志の所在についてである。自由意志、といえば堅苦しいが、要するに、人は自分で考えることができるだろうか、加えて自己とは何か、という問いである。考古学的に起源を問えば果てしなかろうが、筆者の知っている限り、ルターとエラスムスの論争が記憶に新しい。無論、自由意志の存否について、である。前者は、人は結局神に行動を予定されている、として、後者は、神による人間の決定を否定する。その背景にはルネサンスーー歴史的にフマニタス研究と呼ばれる運動があることを、我々は見る。ムッサートを鼻祖とする人文主義は、今までのキリスト教スコラ哲学を批判し、人間の価値を称揚する。ペトラルカは太陽だ。詩人によれば、詩の女神ムーサが力を与えるという。あのダンテ・アリギエーリ――キリストを信じ続け、堕落した神の花嫁たちを批判し、放浪に命尽きた詩人さえも、畢生の大作『神曲』の最初に、詩の女神に祈りを捧げている……天高く歌えるように、神の奇跡を詩行に示すことができるように。つまり、異教の神々の復活である。ジョヴァンニ・ピーコ・デッラ・ミランドラは、人間の尊厳を爽やかに語った。かくしてルネサンスは産声を上げる。産婆は詩人であった。中世抑圧されてきた詩は、墓場から蘇った。永遠の肉体を得た詩は、フィチーノなどによって市民権を得る。それがルネサンスである。興味のある方は、伊藤博明『ルネサンスの神秘思想』をご一読いただきたい。人間の自由について、深く考える契機になろう。

 

 本作で自由意志が強調されるのは、オートレイヴ(自動機械のようなもの)、人間もどき、そしてproxyの性質による。いずれも己より高次の存在を知っている。悲惨なのは、自分より高い存在が、全能ではないということであった。我々の世界では、キリスト教の神も、イスラム教の神も、ユダヤ教の神も全能である。即ち、レゾンデートルを容易に求められない。リルは常に懐疑的だ。デダルスはもっと簡単に、リルを己のレゾンデートルだとした。ヴィンセントは、更に険しい峰を登る必要があった。ピノは感情を大切に抱きしめた。

 更に、コギトウイルスも疑問を投げかける。それに感染したオートレイヴは、自我を持つという。コギトとは、ラテン語の cogito である。デカルトの Cogito ergo sum がなじみ深い。それには自己意識という訳語が当てられるらしい。が、エティモロジーに泥むのはやめよう。我々は、先へ歩かねばならない。

 ergoは、「それゆえ」などと訳されるらしい。そうして sum は、「ある・いる」を意味するという。つまり、自分の存在が確証される、というわけだ。そこで、 cogito が問題となる、というわけで、テーマもそうなる。また、 proxy も意味ありげにこちらを見ている。代理、である。つまり誰かの代わり。自己の確証が困難な立場に立たされている。

 

 最終的に、リルやヴィンセントの生きる世界は崩壊する。そして、彼らの創造者――本物の人間が到来する。だが彼らは諦めない。それぞれが自我を確証し、自分たちの旗を立てるため旅立つ。未来は光か、闇か?……アニメはここで終わる。多分に示唆的である。彼らの物語に思いを馳せよう。彼らは筆者に翼を与えた。それを懸命に羽ばたかせ、飛ぶ時が来た。空は青い。太陽は超然と微笑んでいる。Ergo proxy のテーマを、今度は自分が追体験する。それは視聴者の至福の時であり、特権である。

 優れたアニメだった。