人魚をめぐって

 今、筆者は羽鳥書店刊行の『イメージの自然史 天使から貝殻まで』という論考集(ないしエッセイ集)を読んでいる。著者は、田中純教授。仙台市に生まれ、東京大学の大学院を出た後、同大学院で教授の職に就いているという。

 筆者は先にエッセイ集という言葉を使ったが、それというのも、あとがきにおいて「デッサンを描きスナップ写真を撮るような身軽さで短い文章を綴ってきた」と明言しているからである。ゆえに、ところどころ疑問に思うような論理もある。が、全体としては、タイトル通り「イメージ」を巡った魅力的な文となっている――と思う。

 さて、筆者はまだ通読をしていないが、本書に収録されている「『リヴァイアサン』から『崖の上のポニョ』まで――ある象徴の系譜」という文章で展開された理論――あるいは宗教――が、新奇なものと感じられた。そこで、本論をざっと俯瞰して、説得的か否かなどという問題は抜きにして、果たして真実かどうか、という問いを投げかけてみたい。

 

リヴァイアサン』の扉絵

 

 名高いホッブズ著『リヴァイアサン』の扉絵には、数多の人間が集合した巨大な人間が、右手に剣、左手に杖を持った姿で描かれている。これは王権の比喩には違いないだろうが、問題は、リヴァイアサンという名前である。

 リヴァイアサンとは旧約聖書に現れる海の怪物である。海の怪物……にもかかわらず、この巨人には海獣らしさがない。

 著者はここで、カール・シュミットの議論を参考に、この巨人の下半身が描かれていないことに注目し、下半身が魚ではないかという。つまり、この巨人は人魚ではないか、というのである。

f:id:tuassoa:20180325194948j:plain

 

生と死のイメージ

 

 ところで、なぜ我々は人魚というと、上半身が人間で下半身が魚、それもとりわけ女性のイメージを想起するのだろうか。上半身が魚で下半身が人間、あるいは男性の人魚も歴史上イメージはされていた。

 田辺悟は人魚を彼岸と此岸の象徴である、という。氏によれば、古代世界では、その空中と海中を自由に往還する様から、イルカがこの世とあの世とを往復できる生物と見立てられたらしい。つまり、海中は彼岸、大気は此岸というわけだ。

 人魚もこのイメージをもとに造形された。上半身の人間は此岸、下半身の魚体は彼岸を象徴する。そして、下半身の魚体が死を象徴するがゆえに、我々には魅力的に映る、というのである。著者は直接言及していないが、同時にそれは、人のタナトスをも惹起することになるだろうか。

 

人魚のイメージは母体回帰願望である

 

 ここで著者は、精神分析医シャーンドル・フェレンツィの『性器論の試み』を引用する。彼によれば、男性器は魚であり、子宮は海である、つまり性交により、「海」への回帰願望が達成される。……一般常識からすれば突拍子もないように聞こえるが、大真面目に力説しているのだ。ちなみに、これを「タラッサ的退行」と呼ぶ。

 では、なぜそのような「降海の見果てぬ夢」が芽生えるのだろうか。

 フェレンツィは、生命の海から陸への進化は、環境の急変によるやむを得ないものであったと考える。ゆえに、強制された進化であったればこそ、我々には海へ還りたいという願望が生まれるのである。ゆえに、性交によって男性は子宮という海への回帰願望を叶えるのである。

 そのような無意識の願望が表層に現れるにつれ変形し、めぐりめぐって下半身が魚、上半身が女体の人魚というイメージに収束した、と著者は言う。つまり、人魚のイメージは基本的に男性によって形成された、というわけだ。

 

崖の上のポニョ』は「生命史」と「降海の見果てぬ夢」の同時上演である

 

 筆者は『崖の上のポニョ』を一回しか観たことがなく、記憶も朧気であるが、著者によればそれは、以上に述べた人魚のイメージに秘められたものの、表徴であるらしい。

ポニョは人間の宗介に好意を持ち、人間になりたいと願う。それは生命の進化の再上演ある。また、彼女の父は、人間から海の住人になったという――つまり、「降海の見果てぬ夢」の達成である。また、作中では大洪水が起こる。これも、「タラッサ的退行」の究極的表現ではなかろうか、と著者は言う。

 

ついでに……『瀬戸の花嫁』への適用

 

 筆者は『瀬戸の花嫁』が結構好きで、アニメも何度か観た(漫画は読んでいない。あの手のシリアスが好きではない)。本作も、ヒロインの瀬戸燦ちゃんは人魚で、また人魚の登場人物も複数いる。あえて言えば、男性の人魚を堂々と描いたところが、評価のポイントだろうか。

 主人公の満潮永澄くんは、海でおぼれてあやうく死にかけるところを、人魚のフォルムの燦ちゃんに助けられる。これはあたかもアンデルセンの『人魚姫』を想起させるが、本作ではあのような悲劇的なクライマックスにはならず、燦ちゃんが永澄くんの許嫁になってしまう。ここに、江戸前瑠奈ちゃんや銭形巡などが絡んで痛快コメディの様相を呈してゆく。

 さて、前述の通り人魚のイメージが死の象徴だとすれば、燦ちゃんを求める永澄くんは、無意識のうちに死を求めている、ということになる。ただ、彼は他ならぬ死の象徴により、命を助けられているのだ。これは、単純に考えれば古代以来のイメージのメタモルフォーゼか、それともそもそもの理論が間違えているのか。筆者には断言できない。しかし、人魚が「降海の見果てぬ夢」だとすれば、永澄くんは燦ちゃんに海を見、「タラッサ的退行」を願っているのかもしれない。そうして彼らが結ばれれば、それはノアの大洪水さながら、彼の一切を洗い流すのかもしれぬ。